主な貢献
土佐勤王党を結成し、土佐藩における尊王攘夷運動の中心的指導者として活躍。200名以上の同志を集め、藩政改革を推進した。岡田以蔵・中岡慎太郎ら多くの志士を育成。
その後の結末
八月十八日の政変後、山内容堂の藩政復古により投獄される。1年8ヶ月の獄中生活を経て、1865年(慶応元年)に切腹を命じられる。獄中でも志を曲げず、三文字切腹という壮絶な最期を遂げた。
尊王攘夷運動と自由民権運動で日本の未来を切り拓いた土佐の志士たち
19世紀中頃、日本は200年以上続いた江戸幕府の支配体制が揺らぎ始めていました。1853年のペリー来航を契機に、外国勢力の脅威に直面した日本では、天皇を尊び外国を排斥する「尊王攘夷運動」が全国に広がります。そして明治維新後は、近代国家建設のため「自由民権運動」が展開されました。
黒船来航により外国の脅威が現実となると、天皇を中心とした国づくりを目指す「尊王論」と、外国勢力を排除する「攘夷論」が結びつき、全国の志士たちが行動を起こしました。土佐藩では武市半平太が土佐勤王党を結成し、坂本龍馬や中岡慎太郎らが活躍しました。
明治維新後、新政府は薩摩・長州出身者が権力を独占する体制となりました。これに対し、国民の参政権と議会開設を求める運動が全国で展開されます。土佐出身の板垣退助が中心となり、植木枝盛らが理論的支柱として活躍。「板垣死すとも自由は死せず」の名言で知られています。
土佐勤王党を結成し、土佐藩における尊王攘夷運動の中心的指導者として活躍。200名以上の同志を集め、藩政改革を推進した。岡田以蔵・中岡慎太郎ら多くの志士を育成。
八月十八日の政変後、山内容堂の藩政復古により投獄される。1年8ヶ月の獄中生活を経て、1865年(慶応元年)に切腹を命じられる。獄中でも志を曲げず、三文字切腹という壮絶な最期を遂げた。
薩長同盟の成立に尽力し、大政奉還の実現に貢献。亀山社中(後の海援隊)を組織し、近代的な商業活動と海運事業を展開。船中八策を起草し、新国家構想を提示した。
1867年(慶応3年)11月15日、京都・近江屋にて中岡慎太郎と共に暗殺される(近江屋事件)。大政奉還からわずか1ヶ月後の悲劇であった。犯人については諸説あり、今も謎が残る。
陸援隊を組織し、薩長同盟の実現に向けて龍馬と共に奔走。各藩の志士たちとの連絡役として、討幕運動の橋渡し役を担った。間崎哲馬に学び、吉村虎太郎と共に行動した。
1867年(慶応3年)11月15日、近江屋事件で坂本龍馬と共に襲撃され、2日後に死亡。維新の夜明けを見届けることなく散った。暗殺時に残した証言が犯人特定の手がかりとなった。
「人斬り以蔵」の異名を持つ幕末四大人斬りの一人。武市半平太の道場で剣術を学び、土佐勤王党に参加。坂本龍馬の紹介で勝海舟の護衛を務め、刺客から守ったこともある。
京都で捕縛され土佐へ送還。過酷な拷問の末に自供し、土佐勤王党の崩壊を招いた。1865年、武市半平太の切腹と同日に打ち首に処される。辞世の句は「君が為 尽くす心は 水の泡 消えにし後は 澄み渡る空」。
土佐勤王党に加盟し、脱藩して尊王攘夷運動に身を投じる。天誅組を組織し、三総裁の一人として中山忠光を擁立。孝明天皇の大和行幸の先駆けとして大和国で挙兵した。
天誅組の変で挙兵するも、八月十八日の政変で情勢が一変。幕府軍の攻撃を受け、大和国吉野鷲家谷にて戦死。維新を待たず若くして散った急進派志士の代表的存在。
土佐勤王党に参加し、武市半平太の指示のもと、安岡嘉助・大石団蔵と共に土佐藩参政・吉田東洋を暗殺。藩政改革の障害を排除し、土佐勤王党の勢力拡大に貢献した。
暗殺後は脱藩して長州藩に潜伏し、その後京都へ。1863年、吉村虎太郎と共に天誅組に参加し、軍監を務めるも、幕府軍との戦いで戦死した。
江戸で安積艮斎の私塾に学び、土佐に戻ってからは教育者として中岡慎太郎・吉村虎太郎らを指導。土佐勤王党では中核人物として武市瑞山から重用され、尊王攘夷運動の理論的支柱となった。
青蓮院宮尊融親王の令旨を奉拝しようとした越権行為が藩主・山内容堂の逆鱗に触れ、1863年6月、平井収二郎・弘瀬健太と共に切腹を命じられる。土佐勤王党の獄の最初の犠牲者となった。辞世の句「守る人の有るか無きかは白露のおき別れにし撫子の花」
土佐勤王党結成時に武市瑞山に次ぐ第二番目の署名者として参加。江戸での志士たちの連携を促進し、長崎で独自に1000挺の新式銃を購入するなど、党の実務面で重要な役割を果たした。
八月十八日の政変後も、常に藩の命令に従って行動していたため投獄を免れた稀有な存在。戊辰戦争では迅衝隊の少軍監を務め、明治維新後は新政府に入るも間もなく辞職。その後は高知政界の「旧勤王党派」の中心人物として活躍し、1916年に87歳で死去した。
土佐勤王党に参加し、中岡慎太郎の盟友として京都で尊王攘夷運動に従事。陸援隊の一員となり、中岡と共に大政奉還の実現に尽力した。
維新後は新政府の官僚として各県知事を歴任。1885年以降は枢密顧問官、1898年から1909年まで宮内大臣を務めた。幕末志士の最後の生き証人として96歳の長寿を全うした。
自由民権運動の指導者として立志社・愛国公党・自由党を結成。「民撰議院設立建白書」を提出し、国会開設運動を全国に広めた。「自由の父」と称される。
1882年の岐阜遭難事件で負傷するも「板垣死すとも自由は死せず」の言葉で知られる。その後も政界で活動を続け、伯爵に叙せられる。1919年に82歳で大往生を遂げた。
1874年に立志社創設メンバーとなり、「東洋大日本国国憲按」を起草。主権在民・抵抗権・革命権を明記した先進的な憲法草案を提唱し、自由民権思想の理論的支柱となった。
第1回衆議院議員選挙で当選するも、1892年(明治25年)に病により35歳の若さで急逝。その先見的な思想は日本国憲法にも影響を与えたとされ、後世に大きな足跡を残した。
土佐藩の参政として藩政改革を推進。坂本龍馬の大政奉還論を山内容堂に進言し、実現に導いた。明治以降は板垣退助と共に愛国公党・自由党を結成し、自由民権運動にも参加。
明治政府で逓信大臣・農商務大臣を歴任し、伯爵に叙せられる。晩年は政府側に接近し、民権派との距離が生まれた。1897年(明治30年)に60歳で死去。
1874年に板垣退助らと立志社を設立し、議長・社長を歴任。自由民権運動を全国的に推進する中心的な民権結社を主導。初代高知県会議長も務め、「立憲政治の父」と称される。
1877年の立志社の獄で逮捕されるも、第1回総選挙から8回連続で衆議院議員に当選。1898年から死去するまで衆議院議長を務め、1903年に61歳で死去。
「東洋のルソー」と呼ばれ、ルソーの社会契約論を「民約訳解」として翻訳・紹介。1881年に西園寺公望と「東洋自由新聞」を創刊し、自由民権思想の普及に貢献した。
第1回衆議院議員選挙で当選するも、議会政治に幻滅して辞職。晩年は喉頭癌を患い、死の直前に「一年有半」を執筆。1901年に54歳で死去。その思想は後世に大きな影響を与えた。
土佐国宿毛出身の武士・政治家。自由民権運動に参加し、自由党・憲政党・立憲政友会で活動。国会開設運動の推進に尽力した。
明治政府で逓信大臣・農商務大臣を歴任。政界の重鎮として長く活躍し、1921年(大正10年)に79歳で死去。民権運動家から政府の大臣へと転身した典型的な例となった。
イギリス留学で学んだ言論・思想の自由を日本に紹介。中江兆民らと自由民権運動を推進し、自由党副議長に就任。「自由新聞」を創刊し主筆を務め、私擬憲法意見を起草した。
板垣退助の外遊に反対して離党。政治演説の禁止命令を受け、加波山事件に連座して逮捕(後に無罪)。1886年にアメリカへ亡命し、1888年にフィラデルフィアで客死。享年38歳。
神奈川県権令として1872年のマリア・ルス号事件で特設裁判所裁判長を務め、清国人232名を奴隷として解放。日本初の国際裁判当事者となり、後の芸娼妓解放令にも影響を与えた。また、賤民(穢多非人)の身分廃止と解放にも尽力。
1875年以降は板垣退助を尊敬し自由民権運動に関与。立志社の獄にも連座したが、その後も政治家として活動を続け、人権擁護の姿勢を貫いた。1921年に74歳で死去。
土佐藩士として維新に貢献。1868年の五箇条の御誓文の起草に参画し、「広く会議を興し万機公論に決すべし」の理念を形成。列侯会議の概念を加え、公議政治の基礎を築いた。
明治政府で文部大輔・司法大輔などを歴任。元老院議官・枢密顧問官を務め、伯爵に叙せられる。五箇条の御誓文の理念は後の自由民権運動にも影響を与えた。1919年に84歳で死去。
土佐の偉人たちが遺した言葉には、時代を超えて私たちの心に響くメッセージが込められています。
本サイトは、幕末の尊王攘夷運動と明治の自由民権運動という二つの重要な歴史的ムーブメントにおいて活躍した土佐(現在の高知県)出身の偉人たちを紹介する教育的サイトです。
掲載内容:武市半平太、坂本龍馬、中岡慎太郎、岡田以蔵、吉村虎太郎、那須信吾、間崎哲馬、大石弥太郎、田中光顕(尊王攘夷)、板垣退助、植木枝盛、後藤象二郎、片岡健吉、中江兆民、林有造、馬場辰猪、大江卓、福岡孝弟(自由民権)の計18名の生涯と功績を紹介しています。
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